2013年5月4日土曜日

[Movie] Baffalo'66と映画批評について

Baffalo'66はヴィンセントギャロが監督、脚本、主演を努めた1998年制作の映画。
プログレ中心の音楽使いと挑戦的とも言える手法が受け、当時一部の人の間でカルト的な人気を集めた。

(これより下ネタバレもあります)

話のあらましは6年の刑期を終え刑務所から出たての男が、トイレを借りる際に立ち寄った建物で出会った少女を拉致し、自分の妻として両親に会うよう脅すという内容。

そもそも刑務所に入っていた理由も賭けに負けた代金を払えず代わりに入所する羽目になったということもあり字面で見る程凶暴な男では無いのだが、
(だからといって同情できるような男では決して無い)
拉致された少女も主人公の妻としての役割を演じるうちに次第に彼の境遇を理解し
彼と共に居たいと思うようになっていく。

私も主人公とヒロイン、レイラの感情が動いて行く様子に感じるところが無い訳ではなかった。

はじめに断っておくと男のエゴ満載で映画の雰囲気と相まってショッキングなシーンもあるので、
ディズニー映画をハンカチ片手に見るような女の子と見るには向かないと思います。

この映画の特徴として1,500,000$と制作費用があまり掛かっていないということ、
監督、脚本、主演をヴィンセントギャロが努めているという点がある。
もともと商業的な成功が高望みされていない為に数多くの実験的な手法が使われていたりストーリーから主人公の演技まで一気通貫でアウトプットされている事もあり、制作者のエゴがふんだんに詰まっている。

それ故か、ストーリー上成立させる為に仕方なく作っているような場面については本当にどうしちゃったんだというぐらいお粗末だったり遊ばれてたりする。
例えば、主人公の子供時代の回想シーンが徐々に拡大するワイプで抜かれるだけという今では考えられないようなどえらい手法が使われていたり、
主人公一家とヒロインのレイラが一緒に卓を囲むシーンでは小津安次郎を思わせるような定点で撮るような手法が無茶な使われ方をしている。
他にも主人公の父親が自室で自慢の歌声を披露するシーンやヒロインのレイラがボーリング場で踊るシーンでは場面をブラックアウトさせ演者のみにスポットライトを当てるようなミュージカル調の表現が使われているが多分無意味。
これらの表現がまた全部ハマって無いところが泣かせる。

上記大体主人公の実家のシーンで使われているのだけど、
この実家シーンが描く親父のエロさやだらだらした展開が単純に不愉快で、
実家から出て東京で暮らしている自分としては、苦笑いするようなリアリティが含まれていたりもした。

一方で後半ストーリが展開する部分では非常にスムーズに映画が進行し、
主人公がヒロインのレイラに心を開いて行く様子は絶妙な機微が上手く描かれており、
ヴィンセント・ギャロが描きたかった部分はここなんだ!と強く実感せざるを得なかった。

今回私はこの映画を見るに当たって、ストーリーや映画を取り巻いていた状況など
最低限の事前知識を仕入れてから見たのだけれども、
事前知識がなければただのつまらない映画だったという評価に落ち着いていたかも知れない。
なんならストーリーがよくわからなかったかもしれない。

というのはヴィンセント・ギャロが監督・脚本・主演の全てを努めるという不可能に近い事をやってのける事で、映画を作る際にどうしても出てしまったほころびに目を奪われ、
映画が表現したい事を見逃してしまっていたかも知れないからだ。

ここでこの記事のもう一つのテーマ"映画批評について"という内容に移るのだが
じゃあ、実は表現したい核となる部分は上手く描かれているのにそれ以外の部分で減点対象が多かったからといってこの映画を駄作としてしまっていいかというと
決してそんな事は無いと思う。

映画を見た時の感想がいくつかあるとする
・ハラハラどきどきする
・泣ける
・3Dだ
・表現が素晴らしい
直球で表すと、こんな事を言ってる感想をよく耳にする。
そしてこれらの感想の共通点は”制作側の意図を観客が汲み取って感じた事”ということある。

”泣ける”とか”ハラハラドキドキする”とかって言うのは感情で言うとすごく単純なもので、
クリボーが来たから飛ぶ見たいな簡単なものだ。
観客はクリボーが来たら飛べば良いし、パタパタがいればよければいい。
こういった映画は観客の心を動かす為の装置がすごく緻密に用意されていて、
これがまた骨の折れる労力がかかる。ただ動かす心は割と単純なものだ。

一方で"表現が素晴らしい"という感想は初めて映画を見た人間からは出てこない。
いくつか映画を見て映画を撮る側の目線に少し立って、それぞれを比較してみた人間からしか出ない感想だ。

近年商業的に成功するという事は多数の人にわかりやすい切り口が与えられている間口の広い映画だ。
こういった間口の広い映画が一般大衆娯楽映画として面白い映画として評価される傾向があるのだが、
多くの人の共感を得るという事はそれだけ見逃された、切り捨てられた感情の機微も多いという事を表している。

近年商業的に成功している映画、つまりテレビやアクセスの良い所にある映画館で上映されている映画は見た時に感じる気持ちが出来るだけ限定的になっている事をよしとしている用に思う。
映画の中では優しさや愛情や友情の大切さを唄う一方で、
比較的わかりにくい切り口の映画や表現したい事を表現しきれていない映画は評価に値しないとしてしまっている。

これは制作側への思いやり(必要かどうかはここでは話さない)を含めて、人の相互理解からはかけ離れていて、これって商業映画が抱えている大きな矛盾なのではないかと思う。
難解さこそが素晴らしい映画であるとは決して言わないが、
切り口がわかりずらい、もしくは表現が完成していない映画を見るにあたって、
客の理解を助ける為の道具としての映画批評というのは一つ映画を楽しむ為の重要な要素なのでは無いかとおもう。

自分も雑誌の評価を見たり人伝いに聞いた評価があるとそれを鵜呑みにして限定的な視点で映画を見てしまいがちなのですが、過信したり無視したりせず、
重要なのは同じ映画を見たときの人々の多種多様な受け取り方、それを読んで自分の目で確かめて受け取りかたやサイドストーリーを受け入れた上で映画を見る。
それも一つの映画の醍醐味なのかもしれないと思った次第です。

2013.05.03

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